人工透析に通われている方がいらっしゃいます。
その方の自宅から病院までの送迎を週に3回行っています。気管切開をされていて発語ができません。脳梗塞の後遺症で半身麻痺です。座位可能で立ち上がりや移乗動作も見守りで行えます。食事摂取も経口で行えています。生活全般に介助が必要ですが、自分のことは自分で行おうとされる方です。男性。
もう2年くらいのご利用があります。お伺いした時に転倒された後の時もあったりしました。発語ができないのでキーボードを打つと文字が表示されるものがあったり、五十音表を持っていたり、携帯のメール画面に文字を打ったりして意思表示をしてくださいます。
昨年あたりに数日ご入院されたことがありましたが、退院の際に「先生に、もう、透析以外はなにもしない、と言ったよ」とメッセージを見せていただいたことがあります。男らしいなぁという印象でした。
元気な時に、そのようなこと、延命を望まない、何もしないで欲しい、このままでいい、と言われる方、考えられている方はいらっしゃいますが、現実はその思いを実現できている方は少数だと感じています。
その決めたことに、何があって実現が少数となるか?考えてみました。
先に述べたように延命を望まないとして意思表示をするために「エンディングノート」「終活」ということが盛んに言われている世の中に変化はしています。
そもそも、医療的な救いが身近になったのはもっと以前のこと、昭和初期ぐらいでしょうか?子供のころ見ていたテレビドラマで病気、老衰での死のイメージは、自宅に医者がやってきて家族と一緒に畳の部屋に敷かれた布団の上にいる本人囲み、医師から「ご臨終です」と言われる場面でした。
今のドラマではそのような場面はなく、そのような場所は病院の病室のベッドの上です。本人の意思もあれば、家族の意思もある、そしてなによりそのような死を迎える場所とできる病院が増えて、しかも病院へのアクセスがしやすいという点が大きく変わっています。
それを良しとするのか悪しとするのか、人ぞれぞれの価値観で違うだろう
できる限り長く生きたい本人、出来る限り長く生きててほしい家族の場合には病院を望むだろう
できる限り自然に生きたい本人、出来る限り一緒に生きていたいと思われる家族の場合には自宅をのぞむだろう
病院に居て看護師の目があり、どこか具合が悪くなったときにすぐに診てもらえるから安心という安心はその本人が思うことというよりは、家族が思う家族目線の安心なのではないだろうかと思うことがある。家に一人でいることが心配であれば、見守りができるような機材もあるのでこちらを紹介しておきます。
MANOMA(マノマ)「親の見守りセット」人工透析の男性は、家族とも疎遠となり長く一人暮らしをしている。しかし、それが寂しさや悲しさを感じさせることもなく、酒を飲みタバコを吸ったりテレビを見て透析に通われて、、その姿を見て、それが彼らしい男らしい生き方だと感じた。この方が病院に居て、酒もタバコも吸えずテレビは見れるだろうけど透析に通って、、という姿。とても彼らしいとは思えない。
彼との印象的なやり取りは他にもあり、透析の時間が1時間長くなったという時だった。その時彼が説明してくれたメッセージボードには「酒をやめれば透析の時間をそのままにできるが、酒をやめないなら透析時間は1時間延長となると言われて、酒をとった」とガッツポーズをしていました。本当に彼らしい選択だと思った。
以前は、車への乗降は車両の座席へ行っていた。今は車椅子のまま乗降している。病院に入院していて退院した後からである。
先日、利用者様とお迎えの車両の関係ですぐに透析帰りのお迎えに行ける車両が車椅子での乗降ができない車両であった。ひとまずその車両で彼をお迎えに行った。以前のように座席への移乗を声かけすると即座に大きく頷かれ笑顔を見せてくださった。そして以前のように後ろ向きから座席に臀部から着座し臀部を軸に座席へ足を収納する動作が問題なく行なえた。もう半年くらいは行っていなかった動作ではあったが、彼は普通にやってのけた。
すごい!すごい!すばらしいですね!できましたよ!と拍手喝采で声をあげていたと思います。彼も満面の笑みを浮かべていました。この笑顔がみれるのであれば彼にとっての在宅生活は決して間違いではない!と深く印象に残る出来事であった。
生き物はいつか終わりがあるということはみな同じことであるが、
生き方はいろいろあっていいんでしょう
何を選択するかは自由です。
離れて住む親を見守るなら、MANOMA(マノマ) 高齢の親御さまの「いつも」と「もしも」をスマホで見守り MANOMA(マノマ)
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